SSブログ
想いで ブログトップ

ミウラへGO!! [想いで]

 裸足で渓を遡行していた危険な頃から数年経ち・・・・

免許とクルマを手に入れてから、ヤマメ釣りが本格的に。

当時の愛車はHONDAワンダーシビック

重ステのMT車だったなぁ 当時はガタゴト道も多くて底打ちは当たり前・・・

もっとも厳しい林道は敬遠はしてましたけど・・・

 釣りの手法はエサ釣り。

最初に買った渓流竿は五千円の韓国製4.5メートル。

数回使用してから、なんとなく満足いかずに日本製を手に入れることに・・・

ご存じ、シマノ製の刀渓。αズーム。

気に入って使用しましたねぇ バイト代で3.6 4.5 5.3と揃えましたねえ(笑)

最終的にはダイワの華厳6.1まで購入しましたな もう社会人になってましたが・・・

ちなみに今でも現存してます。たまに振ってみたくなりますが使わないでしょうね(笑)

さて、タイトルの 『 ミウラへGO!! 』

近所にあった 三浦漁具店。

そのお店には沢山の魚拓があって、行くたびに眺めては

いつか大物を釣ったらオイチャンに魚拓をとってもらうんだと思っていました。

2015.12.14.jpg

生まれて初めて釣った尺ヤマメの魚拓

念願かなってオイチャンに魚拓を頼んだ時は嬉しかったなぁ(笑)

いまはデータで残すだけですが、上手な魚拓はいいですね(笑)

大物釣れたら、ミウラへGO!!

それが合言葉でしたよ(笑)

チナミニミウラノオイチヤンハゲンキダヨタイチヨウクズシテミセハタタンダケドネ





nice!(0)  コメント(0) 

アイビージャックを片手に・・・ [想いで]

2015.11.12.jpg

我々世代には懐かしいシューズ・・・

中学生御用達だったかな・・・

唐辛子浮きでヤマメを釣ってからの約十年後かな・・・

高校生になり ご存じフクさんとの出会い

なんとなく釣りの話になり 彼のお父さんにヤマメの場所まで車で送ってもらうことになった

朝方に渓に送ってもらい 夕方に迎えに来てもらうパターンでしたね・・・

当時 通学には白いスニーカーと校則で決まっていたので 私はコンバースのハイカットを

履いていましたね(笑)

サカナ釣りにはコンバースという訳には行かず・・・

前出のアイビージャックの出番となりました

知識とお金のなかった高校生の我々はスニーカーで入渓が当たり前でした(笑)

ポイント移動の渡渉は裸足になって・・片手に振り出しサオ・・・

片手にアイビージャック(笑)

いまにして思えば 怪我をしなかったのが不思議なくらい(笑)

フェルト底の鮎タビを購入したのは数年後のハナシ(汗)

無茶をしてましたね・・・今なら絶対に渓を裸足で歩けないですな・・・

たいして釣果はあがらなかったけど小さなヤマメもキープして食べてたなぁ・・・

小ヤマメの天ぷらは美味しかったなぁ・・・

今ではそんなことしたら 良心の呵責という調味料が強すぎて苦い味になるんでしょうね(笑)

アイビージャック片手にヤマメ釣り・・・

これが本格的にのめり込んでいく原点だと思ってます・・・

それにしても渓に送ってくれるだけのフクさんのお父さんに感謝です

この放任主義はありがたかったなぁ(笑)

ワタシハオナジマネハデキナイケドネカンシヤデス

nice!(0)  コメント(2) 

ハジメテノヤマメノコト・・・ [想いで]

14.07.30.jpg




日向新しき村 宮崎県児湯郡木城町 1939年(昭和14年)~

小説家・詩人の武者小路実篤が1918年(大正7年)に理想郷を目指して起こした村

ダム建設により村の大半は埼玉県に移ったがその一部は現存している・・・



ほぼ40年近く前 小学三年生だった

友人二人 そしてそのお父さんとこの村の対岸に四人で座してサカナを釣った・・・

季節はわすれてしまったが・・おそらく春だったような気がしている

ふり出し竿に青い唐辛子浮き 餌はサシだったか蚯蚓だったか・・・

三人でわいわい釣りをして「騒ぐな」って友達のお父さんに叱られた

浮きを消し込むのは必ずしも山女ではなかったが皆数匹は山女を釣った

真鮒や小鯉あと学校の池の錦鯉なんかしか釣ったことのなかった私は

山女の姿態に驚いた 図鑑で見た山女を実際釣ったことに喜び興奮したのはしっかり憶えている

持って帰って食べたはずだが残念ながらその味は私の想いでの中にはなかった

この時の友人二人は幸いなことにそれぞれの家業を継いで近くに居る

今度二人を誘って釣りに行くかな・・・

山女じゃなくていい 青い唐辛子浮きもって鮒でも・・・










イマハガツコウノイケノニシキゴイハサスガヤバイカナ



nice!(0)  コメント(0) 
想いで ブログトップ